中学の日記を見返したような感覚
ひさしぶり!はてなブログ。元気だった??
ここの存在を2年間忘れていた。このブログを最後に書いたのは自分が修士1年のときのこと。「未来をつかむ」っていうのが最後の更新。
あの時は悩んでいた時期だった。今でも思い出す。大学の階段を降りているときに、視線を足元から向かっている壁の方に移すと海が見えた。本当は何も見えないはずなのに。どうして海を対象に研究する道を選ばなかったのかって。
あの悩みに悩んだ5月から10月の5ヶ月後、僕は研究に打ち込むようになった。それからはこのブログのことが頭の隅に行っていた。
それが最近。とつぜんにこのブログにhelloしたんだ。どうしてかっていうのが面白い。
僕は修士一年の時にタブレットを手に入れた。そのタブレットでブログを書いていたのだ。あるときそのタブレットが動かなくなった。「まあ、安物だから、2、3日すれば動くだろう」と放置するも、結局動かず。結局今まで引き出しの奥にしまっていたのだ。
そのタブレットが最近動いた。動いたのだ!そして当時の開いていたウェブページも保管されていた。そこにこのブログのページがあった。なんとも化石とか恐竜とかそんなものを見つけたような感じだ。時空を超えて、その当時見ていたウェブページやそれだけではなくて、そのときの自分が感じていたものも蘇ってきたから。
過去の自分と今の自分が重なる感じ、つながる感じ、一緒になる感じ。こんな感覚をしたからこそ色々と書きたい文が出てきた。
今の進路をどう思っているの?
その後の進路はどうだったの?
またこの文章を未来の自分が読んだら、おもろいな。どう感じるんだろう?
大阪にいき(結構前に書いた文章)
大阪に行ってきた。久しぶりだ。何時ぶりだろうか?一年ぶりだ。今回は友達の家で一泊し、黒門市場を見物した。
食の台所と呼ばれるだけあるな。と言うのが今の感想。黒門市場では日本中の素材が集まり、それを加工している。
鶏肉専門店。魚ぶし専門店。野菜専門店。色々な専門店が集まる。そこには日本中の生産地から運ばれてきた素材がある。そしてそれを吟味できる消費者が集まる。
家業は野菜の生産を行っている。一体どのように消費されているのか。大阪では実に上手く調理されていて、素材の価値を高めていた。消費者と生産者がコミュニケーションを取れるようになったとしたら....。いまもある程度は取れるようになっているが、海外産のものなど、生産者が分からないものが多い現状。相互のコミュニケーションがより良い形の循環を産み出す。これは教育やボランティアなんでもそうでしょう。
そして生産者が生産でのコンセプトを発信することで、消費者が素材を信頼しやすくさせる。これも何においてもそう。身の回りで信頼できる人を考えてみると....やはり自らを発信している人ほど信頼できる。
消費と生産
発信と信頼
今回はこんなことを思いました。
未来をつかむ
過去を後悔する日々...
研究室決めの時に、何で真剣に考えなかったのだろう?研究室がホワイトかどうかを第一の選択基準にしていた。
学部移行の時、もっと先輩に会って、進路を考えるべきだった。自分が大学時代を通して、何を得たいのかを考え、そしてその道で努力する事が出来ただろう。一応は、先輩に聞くなどして考えた。だけど、将来の夢とはかけ離れた「札幌にもっと住んで、何かを成し遂げたい」という選択基準で、学部を選択した。
そして、大学卒業後の進路。大学院に行くのか。それとも、卒業か。指導教員に勧められて、大学院に進学したけど、それで良かったのか。自分の人生だよ。
結局、大学院を変える事にした。けど、その選択でも悩む。
根っこにあるのは、「自然の現象を理解したい」気持ち。でもそれが具体的に言葉にならない。それは、問題関心を深めていないから。行動していないから。
函館の研究室で、活発なところがあった。だけど、進学を渋った。それは、研究内容について十分に相談ができなかったから。結局自分の行動力の無さが原因。
そして、その後は色んな研究室を見て回るが、先生に行動力があり、面白い研究をしているところを見つける。
そして、今はそこに在籍をしている。しかし、自分の研究テーマが定まらない。それで、この研究室を選んだ事を後悔し始めた。もう、5月後半からだから、3ヵ月もだ。悩み過ぎ!!!函館の先生に言われたけど、「悩みすぎている人は来て欲しくないな。」
自分が「ここが良い!」と思ったら、そこでがんがんと取り組む。そして、止めるときは潔く止めて、次の事に取り組む。
これなんだろうな。
結局、人生で自分で選択する事が求められる、高校生から今まで、何かを選択する度に後悔している自分。自己肯定感を高める事が出来ていない自分。
そんな自分を変えるのは、やはり自分しかいない。他人は変えてくれない。他人が変えてくれたとしても、自己肯定感は、上がらない。
最近見つけた、気に入っている文章
The best way to predict the future is to create it.
未来を自分の手で築いてゆく
被爆体験を聞いて。
広島での原爆被害者で、その体験を語り継いでいらっしゃる、岡田恵美子さんの講演に参加した。「次世代につなぐ平和」、2017年11月11日札幌にて。
この講演に参加したと思った理由は、2年前に遡る。大学3年生の秋、私は四国九州巡りの旅に出掛けた。どうしても四国に行きたかった。四国には美味しいものが沢山ある。そしてしまなみ海道や、芸術の島など地域の自然を生かした取り組みが為されている。
だから行った。突然旅を決めてしまったものだから、1人旅。
四国は香川、愛媛。九州は大分、熊本、福岡を旅した。福岡から、実家の長野に帰る途中、私は広島で途中下車した。
なぜか?旅をしているときに「日本の戦争、原爆」の事をよく知らない事に気づいたから。そして、広島にちょうど通りかかったから。
平和公園を歩き、資料館を見て回った。資料館で展示を見ている時、急に涙が流れて来た。止めようが無かったのを覚えている。でも本当の事はよく分からなかった。不幸にして、被爆の経験がある方からお話しを伺わなければと思っていた。
それから2年して、今回の講演会に参加した。
岡田さんの被爆体験
岡田さんは8歳の時に、被爆をし、実姉を被爆で無くされている。お姉さんは原発ドームのすぐ近くに居られたと言う。岡田さんは原爆から2キロ地点に居られたが、頭を触ると髪がほとんど抜け落ちたとおっしゃっていた。当時放射線の事を知っている方は全く居らず、緊急で全国から駆けつけた医師も理解していなかった。
家は爆風により崩れ落ち、ちょうど食事時であったため、釜戸、七輪の火が燃え広がり、火災でも多くの方が亡くなった。周りには柱の下敷きになる人、水を求め川に入ったきりの人、皮膚がただれた状態で彷徨っている人...。数えきれない程の苦しんでいる方がいたと言う。
教育の事
岡田さんは国内だけでなく、海外でも語り部をされている。視察をするうちに子供の事を考えるようになったと言う。教育や親との関係が子供に大きな影響を与える様を目の当たりにして来た。また日本の教育も危惧しておられた。上の立場の人から意見を言われた時に、「違う意見を持っています」と言えないのではないかと言う事だ。
子を持つ事
岡田さんは女性であり、お孫さんを授かってらっしゃる。後半では「子を持つ」事について話しがあった。岡田さんは被爆故に病気をお持ちであり、娘さんにも病気があるという。病気があると分かったのは娘さんが大人になってからと言うが、その時大変苦しい思いをされたと言う。湾岸戦争、ベトナム戦争、チェルノブイリ原発事故、福島原発事故等でも授かった子供が病気を発症する被害が出ている。自分の子供までが被害を受ける苦しみは、一体どれ程のものか。未だに原爆の被害が生き続けていると実感する。
今の状況を変えるには
今年ICANがノーベル平和賞を受賞したが、その事にも触れた。日本政府は核兵器禁止条約に賛成をしていない。そして現在核爆弾は全世界に1万5千発以上あると言われている。なぜこれほどの数あるのだろうか。講演会は映画「atomic mom」の上映も行なわれた。映画では被爆で苦しむ方、原爆に関する研究をした過去があり、苦しむ方、原爆実験で苦しむ方が描かれていた。原爆を落とした国も、落とされた国もどちらも苦しむ方がいる。これは「いけない」と分かっても、生活がかかっているから、見たくないものは見ないで来た。機密事項を破ったら、命がないかもしれない。そんな苦しさが伝わって来た。
私は中学の時、いじめに加担した。これでは「いけない」、「息苦しい」と思っても、多数に立ち向かわずに、加担していた。今の原爆を作り出している状況もこれと同じなのではないか。「このままではいけない」、「こんなものを生み出してはいけない」と思いつつも、周りには多数がいる。その中で「本当の自分の意見」を言うのは怖い。人間は社会性を持つ動物だから、社会から阻害される事を怖いと思うのは当然。
でもそれを飛び越えないといけない。
「私には出来のるか」と、問う。
かつて魯迅の書いた本で、この様な文を目にした。少々記憶が曖昧なので、正確ではない部分があるが。
魯迅が日本に滞在していた際に、母国の状況を聞いた。当時は日本軍が進出している時で、日本軍は民間人を取り押さえ、1人ずつ刀で殺していたと言う。魯迅が残念に思ったのは、もちろんその様な状態にある民間人であるが、それ以上に殺される民間人を傍観している、見物している民間人、そして刀を持っていない日本兵である。彼らは笑っていた。仮に民間人が助けようとすれば、殺される。そして日本兵が仲間のやっている事を「やってはならない事」として、阻止すれば殺される。彼らは笑っていたが、それは本心なのか?殺されるのを覚悟で助けるのが普通なのではないか。なぜそのような行動が起きないのか。魯迅はこの状況を憂いだ。
「出来るのか?」
— 分からない。いや置かれている環境に本心でない部分があるから、飛び越えてない。
核爆弾を世界中から無くすのは、とてつもなく難しいであろう。特に教育でその様なものが良いとされていると難しいと、講演で話しがあった。その話しを聞いて、参加者の方から意見があった。そのように教育を受けた方にも、核爆弾のない社会は可能である、と示す事は出来るのではないかと言う意見だ。「あなたの考えは間違っている」とNOの姿勢で対峙するのではなく、「この様な考え方もあるのでは」とYESの姿勢で対話するというものだ。この様に考えたとき、意外と核爆弾を無くすのは簡単と思えるかもしれない。「後の世代にどんな地球を残したいか」、「どんな社会が好きか」を素直に話せたら。そしてこれが草の根の活動で広まって行ったら、いつの間にか無くなっているのではないか。
最後に
今回の講演では、参加者の方からも身近な人の戦争体験をお聞きした。隣にいた友人が亡くなった。どうしても軍歌は歌えない。その様な過去を経て私たち世代は生まれた。こう思うと、今生きている事が奇跡である。私は今回の講演会に参加し、ある使命感を持った。「今日感じた事、聞いた事は伝えて行かないといけない」。過去は決して無視する事は出来ない。そして過去を知る事で、使命感を持ち、それが自分を生かしてくれるとも感じている。
「食べる」の考察
-
生物が持つ習慣
普段何気なく行なっている習慣はたくさんある。
例えば...
・寝ているときに、熱いから布団をどける
・歩く時に、勝手に手を上下に振る
・シャワーを浴びる前に、温度を確認する
などなど。
これら習慣は人によって様々あるが、「食べる」と言う習慣は全人類が持っている。いやいや全生物が持っているのだ。
-
「食べる」の再考
ある北海道の酪農家さんから聞いた話しが忘れられない。
生物は食べる事によって、生きる事が出来る。人間だって生物だから、生きるために「食べる」し、食べるために、栄養を摂るために体の構造を改善して来た。
時代が経つに連れて、だんだんと食べる能力が落ちて来てしまった。かつては栄養の乏しい物から幾らかでも栄養を摂ろうと、食べる側は必死だった。これは食べられる側も同じく必死で、例えば草は食べられないために葉を硬くした。
だけど今は簡単に栄養を摂る事が出来る。ポテトチップスを食べて、栄養を摂るのには何度も噛む必要はない。ジャガイモだって、畑にいれば勝手に栄養を貰えるから、自分が生きるために根を長く長く伸ばす事はしない。
だから食べる側も、食べられる側も弱くなって来ている。生命力がなくなって来ている。
本当に頑張って食べていると、生きているといつの間にか「大地から自然から恵みを受けている」と言う気持ちになっている。それもそのはず。食べ物は元々を辿れば岩石や太陽のエネルギーから出来た物だ。自然なくして生きては行かれないんだ。
この話しを聞いたときのインパクトは大変大きかった。食べる事を通して「自然の恵み」を感じると言う事が衝撃的であった。そして食べる側も、食べられる側も生きるためにより自分を強く、巧みにしていて、これが生命力を感じさせるのだと知った。
-
食べる事、食材を見つける事、育てる事、料理する事ー躍動感ー
僕が2ヶ月程前に経験した食の話しを1つ。
あるイベントで豚肉を使い、それが余った。1日常温で放置をしてしまい、食べるか処分するかで迷った。
迷っているときは、人はかなり動く。文献や人の話しを集め、また豚肉を触ったり、匂いを嗅いだ。五感をフルに動かして、「食べれるか?どう工夫すれば良いのか」考えた。
最終的には食べた。表面を良く洗い、雑菌を出来る限り落とした。そして片栗粉を付け、揚げた。口におそるおそる運び、普段よりも慎重に下あごを動かし、味を確かめた。
食べる事が出来る最低ラインをわずかに越えていた。
この時は五感を使い、そして体全身を使って、食べた。いつもの食べるとは違う、躍動感を味わった。
-
まとめ
- 食べる事は全ての生物が行なう
- 食べる事は生命力と結びついている
- 本気で食べる事からは躍動感を感じる